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原発の事故調査報告書を読んだことある?

事故調査報告書とは?

福島第一原発の事故発生後、早い段階で事故調査・検証委員会が設けられ(2011年7月に動き始めた)、事故調査報告書は1年後の2012年の7月にまとめられています。

報告書は今でも事故調査・検証委員会のサイト (http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/icanps/)からダウンロードできます。

当時の情報と知見に基く報告書なので、事故の解説としては今となっては不十分な面もありますが、報告書で出された提言については今でも色あせていないと思います。その後どうなったかを考えれば、(ちょっと残念な面もありますが)そこで指摘された事故の本質は正しかったことが判ります。

個人的には原発を再稼働させる前に、事故対応の報告書もまとめて欲しいと思うのですが・・・。

事故は他人事なのか?

事故の原因から発生にいたる細かい経緯に違いはあっても、事故の(たいていは複数ある)要因とその構造やパターン、本質的な部分には共通的なものが見られます。同じ物理法則に従った世界で生きているわけですし、事故を生み出す人間の考え方や行動パターンは同じなので当然と見るべきでしょう。(自分だけは違うという人はきっと願望からくる思い込みでしょう)

よく「経験したことがないので・・・」と言い訳する人がいますが、それでは文明は進歩しません。「私は何度も事故を繰り返して成長してきた」なんて言う人は本人以外からすれば迷惑な話でしょう。周囲や過去の事例を研究したり、経験者からノウハウを学んで研鑽すべきでしょう。

事故にいたる前の前兆を見逃してはいけないし、深刻なトラブルになる前に対策することが必要となります。そのためには事故の構造や本質/要因とは何かを理解することが必要となってきます。

でも、何もない所から考えるのは難しいので、過去の他者の事故を例に自分がどうあるべきか?組織がどうあるべきか?を考えてみるのは有益なはずです。

犯人を探して事故を他人のせいにすれば、心情的にスッキリするかもしれませんが、世の中はなかなか良くなっていきません。それよりも事故を教訓に自分や周囲や社会が少しでも良くなるにはどうすべきか?を思案すべきだと私は考えています。

総括と提言だけでも読むことをお勧めします

報告書の内容は膨大ですが、VI章の「総括と提言」に要約的にまとめられていて、それを読めば大多数の人にとっては十分だと私は思っています。それでも90ページ近くありますが・・・。

固有名詞を自分の身近な単語に置き換えると、それって「同じじゃん!」と言いたくなるはずです。

ここでは最後の「委員長所感」の結びの記述を引用しておきます。この最後の一言が本当に伝えたかった事だと私は思うからです。

我々は、この事故を通じて学んだ事柄を今後の社会運営に生かさなければならない。
この事故は自然が人間の考えに欠落があることを教えてくれたものと受け止め、
この事故を永遠に忘れることなく、教訓を学び続けなければならない。


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雑記 | 13:58:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
教えるかどうかの分岐点?

教えるかどうかには分岐点がある?

私にも「教えるかどうか?」という判断基準はある。基本的に「教えてください」と言ってくる人には教えたいが、時間は限られている。
(暇だったら家に帰ってるよ・・・。)

教えるかどうかの分岐点は、逆に人に教えを請う場合、「どうすれば教えてもらえるか?」と方向性は同じはずだと私は思っている。(もちろん個人の性格や価値観による差異はあるだろう)

ということで自分なりの基準というものを書き出して整理してみる。

もちろん、ここでいう「教える」というのは単なる「相手に情報を伝える」という意味だけではなく、教育的な意味も持っている。

利益をもたらしてくれるか?

相手が何らかの利益をもたらしてくれるのであれば喜んで教えるものだ。

例えば、相手が知らない事を教えることで、自分が知らない事を相手が教えてくれることが期待できそうな場合は教える。

もちろん、教えることで相手が成長し、組織(や社会)における貢献が期待できるのであれば教えるだろう。

自分が被害を被るか?

逆に、教えたいと思えない場合でも、教えないと被害が拡大するとか、最終的に自分がやる必要が生じるとか、自分に火の粉がかかる・・・というような場合は、しょうがないので教えるしかない。(でも、ハタから見ても扱いは悪いはず)

教えた事が相手の身になるか?

同じ質問を何度もしてくる人がいる。これは前回教えた結果が相手の身についていない。教えたことは無駄だった・・・ということで次回以降に教えるモチベーションは著しく下がる。

私は(覚えて入ればだけど)2回目以降は「前にも同じ事を教えましたよね?」と言って、相手にやり方を改めるよう促すことにしているが、あまり効果があった試しはない・・・気がしなくもない。正直そういう人はお断りです。

もちろん、前回教えた内容について「改めて考えたらよく判らない所が出てきた」というような場合は、前進している事が認められるので判らない所を再度教える。

自分が教えた結果(かどうかは厳密には判らないが)を相手がそれを活用しているようであれば教えるだろう。

考え方を理解しようとしているか?

問題の解き方ではなく回答だけを聞きにくる人もいる。時間的に差し迫っているのであればしょうがないけど、それを繰り返す人には教える気が起きない。

自分で考えようとしているか?

自分でここまで考えたけれども、ここで判らなくなった。という人は見込みがあるので教える。

考えていない。もしくは質問者が何を考えているのか判らない場合は扱いが悪くなる。

「教えてください」と言う人でも、実際は「相談させてください」であるケースもある。そういう場合は教えるではなくて、情報を提供するとか一緒に考えるとかするとかするので対応しないことはない。でも、聞きかたによっては誤解が生じる(それによって断るケースも生じうる)ので尋ね方は考えて欲しいものだ。

意欲があるか?

これは相手の真剣さによる。「理解したい」「解決したい」という意識が感じられる場合は断らないだろう。

逆に「やらないといけないから」「興味がない」と見える場合は教える気が起きない。経験上、そういう人に教えても効果が薄いことが判っているからだろう。

人に聞く際に「メモをとらないのは失礼だ」という人もいる(私はそうは考えない)が、それもそういった真剣さを求めてのことなのかもしれない。

もしかしたら「教えて下さい!」と話しかけることで、判らなくて困っているというような心情を伝えたいという人もいるのかもしれないが、私の場合はちょっと違うと思うので相手にはしないことにしている。「私が判らないせいで誰か(お客様とか)が困っている」ということであれば考えなくもないが・・・。

相手が理解できるかどうか?

相手が理解できる実力レベルか?・・・という話ではない。相手が理解できるレベルで話をするだけだ。

困るのは相手が理解できているか否か?リアクションが無い場合だ。

話をしていると、相手が理解しているかどうか?理解する気があるか?等はなんとなく判るものだが、

自分しか知らない事か?

これはしょうがない。自分しか知らない事は聞かれたら教えるしかない。そうならないようにマニュアル化するとか努力はしているが、それにも限界がある。

逆に、だれでも知っていると思われる事は教える気があまり起きない。他人を辞書代わりに使うんじゃない!
「それマニュアルに書いてあるでしょ」という回答は、説明していてちょっと寂しい。

自分が知らない事か?

これは問題にならない。知っていそうな人を紹介するか、一緒に考える(ヒントを出す)とか、何か出来そうなものだ。

まとめ?

結局のところ(特に教育的な)教えるという行為は、何か得られるもの(相手の向上とか)を期待して行うものなので、そう思えるか否かで行動が変わってくるのは当然の帰結なんだろう。

学生なら何も考えずに先生に「教えて下さい」と言えば教えてもらえるだろうが、それは授業料という対価を払っているからだ。ひょっとしたら信条とか何か他のモチベーションがあるのかもしれないが、それは一般には期待できないだろう。



雑記 | 02:42:00 | トラックバック(0) | コメント(0)

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